大坂城の歴史(1) 豊臣秀吉の時代
今から 430年以上も昔のお話。
浄土真宗の本山として栄えた石山(大坂)本願寺の跡地に、天正11年(1583年)、豊臣秀吉は大坂城の築城工事を開始しました。
秀吉は、織田信長の安土城をモデルとしながらも、全ての面でそれを凌駕するような城造りを目指しました。
築城を始めてからわずか 1年半後の天正13年(1585年)に、華麗で優美な装飾を施した天守が完成。
当時、秀吉の政権は、まだまだ不安定なものだった為、自分の権力を知らしめる為にも秀吉は、その象徴となる天守を早く完成させたかったのです。
天守完成後も断続的に城造りは行われ、築城開始から15年の歳月をかけて徐々に、難攻不落の巨城が築き上げられました。
この時の大坂城は、惣構え(そうがまえ)と呼ばれる最外郭まで含めると、面積がおよそ 420万平方メートルにもなり、この大きさは、現在の大阪城公園の約 4倍の広さにあたります。
この当時の大坂城は、4重の堀に囲まれた日本一の巨城でした。
秀吉の死後、秀吉の遺言に従って、息子の豊臣秀頼が、母の淀殿と共に、城主として大坂城に移りました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下の実権は徳川家康へと移り、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡してしまいました。
大坂城の歴史(2) 江戸時代(徳川幕府の時代)
大坂夏の陣で廃墟同然となっていた大坂城を、徳川幕府の二代将軍である徳川秀忠が、幕府の手で再築します。
その再築工事が始まったのが、元和6年(1620年)。
西国・北陸の外様大名を中心に、六十四家の大名を動員して天下普請(てんかぶしん)として行われたこの工事。
各大名が技法の早さや石垣の大きさなどを競った為、比類なく洗練された城が築き上げられました。
この工事で秀忠は、徳川の威厳を示す為に、豊臣秀吉が作り上げた大坂城よりも、石垣をより高くし、堀はより深くするように指示を出しました。
その為、豊臣期の大坂城の上に盛り土がされ、新たに堀が築かれました。
したがって現在、我々が見ている大阪城の壮大な石垣や堀は、秀吉の時代のものではなく、徳川幕府によって築かれたものなのです。
2代目大坂城の天守が完成したのが、寛永3年(1626年)。
そして、3代将軍・徳川家光の時代の寛永6年(1629年)に、2代目大坂城は、3期に渡る工事を経て完成しました。
ところが、この 2代目天守は、完成わずか 39年後の寛文5年(1665年)に、落雷により焼失。
以後、江戸時代に天守が再建されることはなく、昭和の復興までの 266年間、大坂城は天守を失ったままの城となりました。
更に慶應4年(1868年)、明治維新の際には、幕臣の一部が放った火によって大坂城内は燃え、多くの建物が失われました。
大阪城の歴史(3) 明治時代〜昭和時代
明治に入ると、大阪城跡は陸軍の管轄となり、軍用地として整備され、城内に多くの軍事施設が作られました。
この時代もまだ、市民や観光客が城内へ入ることは禁止されておりました。
ところが昭和3年(1928年)、当時の大阪市長であった関一(せきはじめ)氏が、大阪城天守閣の復興を提案。
市民からの寄付金を募ったところ、昭和恐慌による経済低迷の時代にもかかわらず、わずか半年で 150万円にも上る寄付金が集まりました。
これは、現在の貨幣価値に換算すると 750億円とも言われています。
昭和5年(1930年)に復興工事が始まり、その 1年半後の昭和6年(1931年)に完成。
266年の歳月を経て、3代目天守閣が誕生しました。
当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造りで、内部にはエレベーターも備えてあります。
しかも日本では前例のない、地上55mの超高層建築でもありました。
そして天守閣の内部は、復興当初から歴史博物館として利用されています。
その天守閣の外観は、「大坂夏の陣図屏風」に描かれている豊臣時代の初代天守をモデルにしています。
しかし天守閣の石垣は、徳川再建のものなので、天守閣の大きさ自体は、徳川時代の 2代目天守に近いものとなっています。
と言うことは…
2代目大坂城は、豊臣時代の初代大坂城を埋めて、その上に再築され、そして 3代目大阪城は、徳川時代の 2代目大坂城の石垣の上に、豊臣時代に造られた初代大坂城の天守をモデルに再建されたと言うことになります。
少し複雑ですね…
多くの人が現在の見事な石垣を見て、豊臣秀吉の築造だと誤解しています。
しかし実際は、石垣も堀も全てが徳川時代以降のものなのです。
大阪城の歴史(4) 平成時代
大阪城は、太平洋戦争の戦火を逃れたものの、復興から 60数年が経ち、老朽化が進んおりました。
その為、平成7年(1995年)から平成9年(1997年)にかけて、「平成の大改修」と銘打った大規模な改修工事が行われました。
屋根の工事では、約 55,000枚もの銅版瓦を、一旦撤去して、緻密な防水工事と瓦のふき直しが実施されました。
また、内部の改修工事では、耐震補強工事を行い、高齢者や身障者の方たちを配慮して新たな設備を設置したり、機能面でも改善がされました。
最新工法と技術を駆使した精度の高い大改修工事となり、黄金に輝く天守閣がよみがえりました。
近代建築として評価された3代目天守閣は、平成9年(1997)に、国の登録有形文化財に登録されました。
現代版天守閣としては初の認定です。
さらに平成18年(2006年)には、大阪城が日本 100名城に選定されました。
そして平成27年は、大坂夏の陣から 400年後にあたる年ですので、様々なイベントが開催されています!
大阪城の歴史を調べていて、ふと疑問に…
◆ふとした疑問 その1
大阪城のことを調べていて、ふと疑問に思ったのが、「天守」と「天守閣」の違いでした。
様々な書籍には「天守閣」ではなく「天守」と書かれてあります。
色々と調べてみると、言葉の意味はどちらも同じ「城の中心部に設けられた大櫓(おおやぐら)」でした。
しかし「天守閣」は、明治以降に使われるようになった俗称だそうで、「天守」が正しい言い方のようです。
当サイトの「大阪城の歴史」についても、昭和に再建された大阪城の天守に関しては、「天守閣」という言葉を使わせてもらいました。
それ以前のものについては「天守」で統一しました。
◆ふとした疑問 その2
大阪城の歴史を調べていて、ふと気になったのが「大坂」と「大阪」の表記の違いでした。
明治元年(1868年)に、「坂」の文字を「阪」に改めて、「大阪府」が誕生しました。
色々な書籍を見ていると、明治以前の「おおさか」は、「大坂」と表記され、明治以降は「大阪」となっているものがほとんどでした。
なので、当サイトの「大阪城の歴史」についても、そのように表記しました。